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中島秀和先生の旭日双光章のお祝いの宴 3月20日

午前11時30分から、

中之島のリーガロイヤルホテルにて。

大阪を代表するリーガロイヤルホテルの宴会場は、

風格がありますね。

古い新しいを超えた趣があります。


到着すると、前に堺のリーガにおられた、

ホテルのえらいお方が駆け寄ってきてくださいました。

堺でも大変お世話になった方です。


なんか職責を超えて、

人を大切にするという基本的な姿勢が、

またお互いの信頼関係を深めますよね。


どこぞの市職員の中には、

役所の前の横断歩道で正面からすれ違っても、

一瞥だけで挨拶もしない人、約2名。

そんな人が部長クラスとかって、

信じられませんね。


それはさておき、

中島先生のご受章は嬉しかったです。

16年前のO-157学童集団下痢症の後、

堺の医師会、歯科医師会、薬剤師会の三師会の発議によって、

「堺市健康づくり推進市民会議」が

市内21団体によって結成されました。

当時、中島先生は堺市薬剤師会の会長でいらっしゃいました。


9523人もの児童と市民が、

O-157による食中毒症状を訴え

まことに残念ながら3人の少女の尊い命が奪われました。


健康づくり推進市民会議に

女性団体の代表として参画していた私は、

当時の岡島堺市医師会会長の元、

会議にて二度とこの惨劇を繰り返さず、

そして亡くなられた少女や

後遺症で苦しみ続けている方々のために

「追悼と誓いのつどい」を開催することを決めました。


中島先生と私と、

当時の健康福祉部の芳賀さん(現副市長)や

小谷さん(現医師会事務局長)や

市民会議の他の役員さんたちと共に、

夏の暑い日にご遺族の家を訪ね、

このつどいの許可をいただけるようお願いしました。


すでにそのころ、

小学校1年生だった少女のご遺族は

堺市外に引っ越されていて、

ご自宅にてお話をさせていただくと、

お母さまはその悔しさと苦しみをぶつけて来られました。

中島先生や私たちは共に泣きました。


それから市民会議は、

堺市との攻防を続けながら、

「堺市が市としてこのつどいを開催する時まで」と

市民主催の集いを毎年続けてきました。


その間に薬剤師会の会長は今、

変わられて3人目の会長が就任されています。

けれどこの問題に関しては

三師会とも会長が変わられてもぶれることなく、

ずーっと「尊い市民の生命」に寄り添う形で

活動を続けてくださっています。


中島先生も薬剤師として、

当時は駈けずりまわられ、

惨禍の渦中とその後も研究や、

啓発活動を行われました。


そんな中島先生の旭日双光章は、

ひときわ輝いていました。


当時の三師会の会長であられた岡島先生も、

歯科医師会の畑崎先生も、

また現職の岡原医師会長など、

そうそうたる方々がご出席されていました。


衆議院議員の北側先生や馬場先生も。


そして竹山市長が市長になられてから、

この「追悼と誓いのつどい」は

やっと堺市が主催で行うことになりました。

これは竹山市長のご決断にほかなりません。

竹山市長も駆けつけられ、

会場は和やかで華やかな祝宴となりました。