ホーム活動日記日記 > O-157学童集団下痢症から21年 追悼と誓いのつどいに寄せて 7月13日
活動日記
月ごとに読む

O-157学童集団下痢症から21年 追悼と誓いのつどいに寄せて 7月13日

昨日の追悼と誓いのつどいでの私の後ろ姿を撮影して
写真を送っていただいた。

 

blog_201707130101.jpg

自分の背中を見て、いろんなことが思い出されました。

 

あれからもう21年。あの暑い夏の日。間もなく夏休みが近づき、
給食も一学期の終盤だった。
その前年の1月には、阪神淡路大震災が発災していた。

9523人が罹患し、3人の少女の尊い生命が奪われました。
給食協会の理事長だった、Mさんが、水池に身を投じられました。
さらに一昨年の秋、25歳になられ、結婚されたばかりの女性が
HUSの後遺症で亡くなってしまわれました。

未曾有の食中毒事件として世界中に報道され、堺市では、
最初何が起こったのかわからず、しかし感染を防ぐために
全市をあげて消毒、手洗いが徹底されました。

当時医師会の樋上先生が、海外の医学論文から、O-157の研究論文を
見つけられ、公共のプールや浴場の閉鎖を呼びかけられました。

そして医師会をはじめとする三師会の呼びかけで「堺市健康づくり
推進市民会議」が市内主要21団体で結成されました。

長い間、食中毒の原因が特定されず、堺市はご遺族との交渉に
躓いていました。

私も市民会議の一員として、いろいろ役所の方々と丁々発止。

来るなと言われたら、数ヶ月本当にご遺族のもとに行かない行政。

tax payer、納税者の公平性から、「追悼と誓いのつどい」を
止めるよう示唆する元教育長もいた。

最初、市民会議の設立主旨のどこにもO-157の文言もなかったなあ。

当初9523人の方々への謝罪と保険や補償の説明のために、
各被害家庭への訪問に多くの職員が動員され、
その時間外手当が約13億円。

なんかちがう、まちがってると思いつつ、翌年、追悼と誓いのつどいを
提案し、役員でご遺族のご家族にお会いしました。

ひとつひとつ、ご遺族のご意向を確認してきました。

「追悼と誓いのつどい」は、この事件を風化させないためにもお願いします。

「健康づくりと言うけれど、うちの娘は、健康だったんです。」

「娘が毎夜、枕元に立って、なんで自分が死んだのか、と問われる」という
被害者の父。

その後、話はこじれて、こじれて、結果裁判や、交渉断絶。
いかに行政の対応がひどかったのか、私には容易に想像できました。

そんな中でこの20年、欠かすことなく追悼と誓いのつどいを
市民の立場から開催してきました。

堺市健康づくり推進市民会議は、堺市が主催するべき、
と考えていました。

それまでは、ふらふらスタンスの確定しない、
その態度こそがさらに被害者を傷つけていることに気づかない堺市でした。

現場の職員さんは必死でしたけれど。

結局、竹山市長になられてから、堺市が市として「追悼と誓いのつどい」を開催されることになったのです。

市長の決断です。
当たり前のこととはいえ、市民の安全安心を重点政策とする
竹山市長が決断されました。

昨日、本庁の「永遠に」の碑の前で、厳粛な「追悼と誓いのつどい」が
行われている中、その周りをやかましく街宣している維新の政党車。

こんな時に現職市長の批判をする前に、この堺市の市長候補に
なりたいなら、堺市の市長は、O-157の問題に真摯に向き合い、
対応できる資質や、犠牲者に寄り添う気持ちが不可欠。

7月12日が「O-157学童集団下痢症を忘れない日」ということも
知らないんだろう。

市民の生命の重さがわからんような人間は、堺市の首長になる資格は
ないですね。

昨日の参列者の方々も呆れ果てていました。情けない、ひどいな、と。

暑い夏。空からまた聞こえて来る、少女たちのあの声。

「私、なんで死ななあかんかったの?」

助けてあげられなくて、ごめんなさいね。
心からのご冥福を祈ります。

あなたたちのこと、忘れないから。O-157学童集団下痢症から21年
追悼と誓いのつどいに寄せて