ホーム活動日記日記 > O157学童集団下痢症の碑 永遠に 〜心に刻み伝えるために〜 4月6日
活動日記
月ごとに読む

O157学童集団下痢症の碑 永遠に 〜心に刻み伝えるために〜 4月6日

 

午前10時。

昨夜からの雨が上がったものの、

花冷えで真冬並みの寒さのなか、さらに

堺市役所本庁舎のビル風が吹きつける中、

O157学童集団下痢症の碑、

「永遠に」〜心に刻み伝えるために〜の式典が、

堺市役所本館正面玄関前で厳かに開催されました。


竹山市長をはじめ、木村教育長、平田議長、

多くの堺市職員と市教委の職員の皆さん、

学校長、被害地域の方々、市議会議員の皆様、

堺市健康づくり推進市民会議の皆様、

女性団体の皆さんなど300人を超える

大勢の方々が集まりました。

 

 

歴代の「堺市健康づくり推進市民会議」の役員の皆様、

とくに会長職であった岡島慎治元会長、樋上忍前会長、

そして現職の岡原猛会長、

また前薬剤師会会長の中島先生と、

「やっとここまでたどり着きましたね、

感無量だけど、またこれからですね」と

開催前に言葉を交わしました。

思えば、市民会議の構成団体21団体のトップのかたがたとともに、

その中でも

とりわけ医師会のこの3人の先生方がいてくださったからこそ、

今日の日を迎えられたことと痛感しています。

このことは私たちと関係のある行政の

数名の方々にしかわからないことですが、

水面下での行政との攻防、ご遺族との当初の話し合い・・。

さまざまなことがありました。

 

 

 

でも、堺市健康づくり市民会議は、

 決してぶれることはなく、

18年間市民主催の「追悼と誓いのつどい」を開催し、

追悼文集を作成し、

ご遺族との直接的なやり取りはなくても、

なくなられたご本人の思いや、

今もなお後遺症に苦しんでおられる方々の

思いや痛みを胸に活動を続けてきました。

 

「学校給食を食べて命を失う」、

ということが現実にあり、

9523人もの罹患者が発生し

 世界に報道されたほどの事件でした。

多くの市民が二次感染の不安にさいなまされ、

市外への旅行者が、

宿泊を拒否されるなどの風評被害もありました。

二次感染を防ぐために堺市医師会の樋上先生は、

懸命に海外の文献を探され、

公共のプールや浴場などの閉鎖を呼びかけられました。

そのおかげで二次被害が拡大せずにすんだのです。

 

 

 

 

なくなられたのは、

当時小1、小5、小6の女の子でした。

彼女らはとても健康な女の子だったのです。

事件から1年後、

市民会議の数名でご遺族に

「追悼と誓いのつどい」を行っていいかどうか、

ご自宅を訪ねました。

 

あのとき、小1の女の子のお仏壇の横には

山のようなお菓子やぬいぐるみが備えられ、

そばに小さなピンクのバレエのトゥシューズが置かれていました。

お母様とともに泣きました。

小6の女の子のお父様とは、

泉が丘の市民センターでお会いしました。

やっぱり共に泣きました。

 

以来、私たち市民会議は

追悼と誓いのつどい」を開催してきました。

 

「堺市・堺市教育委員会」として主催する日まで、

市民がやる、と。

 

3年前からようやく堺市教育委員会が主催して

「追悼と誓いのつどい」が開催されるようになりました。

でもその最初の2回は「学校安全の日」の催しとして行われ、

市民会議のメンバーにとっては強い違和感があり、

改善を求めました。

 

わたしも堺市議会において、

長い間行政のかたがたの苦労を思い、

またご遺族の思いを尊重して静観していましたが、

あまりにも遅遅として進まない話に

いよいよ議会で質問せざるを得なくなりました。

ご遺族との交渉を本当にきちんとしているのか?

という疑問がありました。

「碑」についての話が、

細かいところでなかなか一致しないということでありました。

 

議会で、「O157学童集団下痢症を忘れない日」の設置を提案し、

7月12日ということで実現されました。

 

そしてようやく今日を迎えることができました。

 

 

 

「永遠に」がこの本庁舎の正面玄関口に建てられたことによって、

事件の風化は避けられることと思います。

二度とこのような事件を起こさないことは

あたりまえのことであって、

けれども尊い命を失った3人の女の子こそ

二度とここに戻ってこられません。

だから、この問題の本当の意味での解決は永遠にありません。

 

自分の子どもや孫であったら、

といつも思ってかかわってきました。

 

だから簡単に、 この堺市で中学校給食を、

 なんて軽々には、私には言えません。

「学校給食」というのは戦後、

多くの国民が一日三食、

まともに食べられなかった時代の制度です。

せめて子どもたちにはたとえ一食でも栄養のあるものをと、

始められた制度です。

海外の国々や国連機関などの大きな支援によって

実施されたものです。

その恩恵を受けた世代のかたがたが、

今そのお返しにとUNICEFユニセフに多額の募金をなさり、

それが世界中の貧困と飢餓に苦しむ子供たちのために使われています。

 

このような子どもの尊い生命が、

学校給食によって奪われる、

という悲劇が現実に起こったとき、

本来なら、「学校給食」というものを国全体で

再考すべきだったと思います。

国は、原因が牛肉かカイワレか、

などというところで議論がとまりました。

 

この事件に関して詳しく書けば本一冊になるほどです。

 

 

でも私には今も空から聞こえてきます。

「おばちゃん、わたしなんで、死ななあかんかったの?

私はもう遊べないの?学校へ行けないの?」

あの夏の日、

アトピーだった2歳の娘を海水浴に連れて行ったとき、

聞こえてきたあの声です。

生きておられたら、

もう30歳、29歳、25歳のきっとすてきな大人の女性・・。

 

ご冥福をお祈りすることしかできないことを悔しく思います。

でも、同じ悔しさと悲しみと痛みを持って、

懸命に私たちと共に動いてくださった

心ある堺市の職員がいることも決して忘れません。

 

いまだに後遺症に苦しむ方々のケアを充実させ、

なくなられた3人の方々とともに生きていくことを

あらためて誓った今日でした。