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父の誕生日 10月25日

85歳になる。
昭和3年生まれの父は、戦争体験者であり、
祖父が日本政府の官吏であったので、
戦時中
父は台湾で育ちました。
メイドさんが何人もいるような蝶よ花よの生活で、
家の庭にはたくさんのバナナの木があって、
おやつはバナナだったそうです。
台北一中に進学し、祖父が台湾で病死、そして敗戦。

敗戦後、祖国日本に引き揚げてくる際には、全財産没収。
9人兄弟の長男だった父と一家は、
祖母の里である岡山の親戚の家に
いったん住まわせてもらったものの、
戦後の日本ですからみんな苦しい生活です、
それでも一家は父の進学のために大阪に移ってきました。

父は大阪市立大学医学部に進学。
亡くなった祖母の弁によれば、
「長男だけは何があっても大学に行かせなければならなかった。」
父は9人兄弟の長男。二人戦死で今は7人。

日本に引き揚げてからの父は、
一家の大黒柱として、親兄弟の面倒を見てきました。
自らも浅香山病院で医師として働いていた時、
同じ病院で管理栄養士として働いていた
母、彩子とウクレレ部で出会い、恋愛結婚。
私を含めて3人の子どもに加えて妹弟4人を引き取り、育て、
全員を大学まで卒業させ、
妹たちの婚礼も面倒をみました。
医師とはいえ、祖母は毎月1日我が家を訪れ、
父は祖母に20万円渡していました。
祖母は最終的に父が引き取り、最後を看取りました。
なかなか大変、しかし寡黙な父は、無言実行を遂げました。

父が本当に自分の楽しみの刀剣や骨とう品集めができだしたのは
50代のころではないでしょうか。
亡き母はこんな父を「20世紀最後の長男」と称していました。

現在は私の家族と暮らしています。
これは母、彩子が亡くなる直前に家族会議を開き、
父と母の希望でした。

母が他界したのち、若干酒量の増えた父。
2年前に脳こうそくで倒れました。
医院を開業して以来、半世紀近く、
1日も医院を休んだことがない父。
夜中の急患や往診にもよく対応してきました。
長谷川俊英議員がご存じだったのが驚きでしたが、
父は在日韓国・朝鮮の方々の診療を無料でおこなっていました。
当時は食卓に上がるのが珍しかったキムチをいただいて、
それがお薬代のかわり、といっていました。

何も言わなかったけれど、
そういう父の医師としての姿は、
平素は気難しくてがんこで、怖い存在でしたが、
私は心の中で、誇りに思っていました。

そんな父は今は、一滴もお酒を飲みません。
元気に医師を続けています。
でも今日は誕生日。
ほんの少しの日本酒で乾杯したいと思います。