私の父は昭和3年生まれ。
今も医師をしています。
父は、9人兄弟の長男。
9人中、2人は戦死しています。
戦時中、父の父が国家公務員として
当時日本の植民地とされていた台湾に駐留したため、
一家は台湾に暮らしていました。
父の父(つまり私の祖父)は、終戦直前に虫垂炎で死亡。
その日から、父は、多くの兄弟の父親役割の責を負うたのでありました。
そして敗戦。
父一家は、すべての家、財産を没収された上で、
日本に引き揚げて来ました。
父の母(つまり私の祖母)は、
懸命に長男を医者にしようと尽力。(と祖母が申しておりました)
で、 父が医師になり、ようやく結婚したところ、
「良典(父)を医師にしたのは私だから、
医者はもうかるのだから妹や弟のめんどうを見よ」ということで、
両親は 新婚当初から、父の妹3人と弟1人をあずかり、
彼らが高校、大学、結婚するまで養育した。
父はもちろん父の母 に対しても
毎月給料の1/3ほどの額をきちんと手渡し続けた。
父の弟は末っ子で、父とは21歳も年が離れているが、
戦後どさくさの中で高熱を出したものの、
子だくさんの祖母にはどうしようもなく、
熱が下がった時には両足がマヒしてしまっていた。
ポリオだった。
以来、叔父は、松葉杖によって歩行し、
家の中では、腕で全身を引きずる生活になった。
私の両親が結婚した当時、叔父はまだ幼く、
私の母(山口彩子)は、叔父の下の世話からすべて、
わが子を生む前からオムツを洗う生活だった。
私が物心ついた頃、叔父は松葉杖で、
毎日、百舌鳥の養護学校に通うようになった。
今のように送迎バスもない時代だ。
母は、まだ幼い私たち3人の子どもを連れて、
雨の日も風の日も阪和線の金岡駅(現在の堺市駅)か
浅香駅から叔父と一緒に電車に乗って百舌鳥駅で降り、
学校の校門まで送り迎えをしていた。
子ども心に当時、叔父と一緒に道を歩いていても
電車に乗っていても世間のなんとも差別的な冷たい視線や
通りすがりの舌打ちを見聞した。
子どもの頃は、
その怒りをことばにすることはできなかったが、
足が不自由でも、明るく、手先が器用で
夏休みの工作や絵画の宿題を手伝ってくれた叔父が好きだったから、
無精に腹が立った送り迎えだった。
叔父の世話をしながらも、
一言もグチを言わなかった母の姿を、私は忘れない。
叔父は私が小学校6年になるまで同居し、
大学を卒業し巣立っていった。
この頃の思い出が、今の私の福祉の原点である。
ハンディ・キャップをもつ人の、実生活での不便さ、
望まなくても、誰か自分以外の人の介助を要する日々の中で
様々な葛藤がある上に、差別を受けた。
周囲の家族までいっしょくたに差別された、
あの時の悔しさである。
のりこ5歳。