最近、お二人の人から父のことを聞かされました。 一人は、慰安婦問題をがんばっている南区在住のSさん、とH議員。
堺市駅の近所にあるお好み焼き屋さんの店主?の方が、 昔、私の父が診察や往診をよくしてくれた、 あのころは、山口先生だけが自分たちを診てくれた、 とおっしゃっておられたとのこと。
そういえば、私が幼い頃、あの頃はまだまだ珍しかったキムチを、 患者さんからいただいたと父が言っていたことを思い出す。 父は、薬代をもらわない代わりに、 こうして漬けもんを持ってきてくれるのだと言っていました。 「朝鮮の方々」と父は言っていた。 「朝鮮の方々は日本で苦労している。でもお金がない。 それでもワシは、同じ人間だから、診察もするし往診もするし、薬も出すさ。」
真夜中でも、本当に往診に行っていたことを思い出します。
今、杖をつきながら家の中を歩いている父も、あのころはよく働いていた。 山口医院を開業してから46年間。 精神神経科・内科・小児科の医師として、 昨年脳梗塞で倒れるまで、病院は1日も休んだことがない。 地域医療の担い手として頑張り続けてきた。 医者といえども、ちっとも贅沢もせず、 ボロは着てても心は錦のごとく、だった。 亡き母が、父のことを「20世紀最後の長男」と称していた。 父は9人兄弟の長男だった。 自分の父親を戦時中、台湾で亡くし、終戦後日本に引き揚げてきた。 かつて日本の統治下にあった台湾ではメイドさんがたくさんいるような屋敷で、 蝶よ花よと育ったものの、終戦後は全財産没収の上で引揚者。 大阪市立大学の医学部に入学し、 母親と8人の兄弟を養う立場の長男となった。 だから医者と言えども贅沢はできなかったという。 そんな父は、妻や、子である私達にも贅沢はさせなかった。
父が赤ひげになったのは、 引揚者として、また20世紀最後の長男としての体験からかもしれないと思います。 今頃そんなお話を、 意外過ぎる方々からほぼ同時に伺った驚きもありますが、 あらためて今、横でごはんを食べている父を尊敬の念で見ている私です。 |