久しぶりにじんときて、今なお考えさせられる素敵な映画を見ました。
一度たりとも同じ風景はこの世にはなく、刻々とうつろう季節や時、その儚い瞬間の美を日本に生きる人々は大切にしてきたんだと。
その美や観念を服という形にして身にまとう。
関口真希子と堀畑裕之という二人の人間が一着の作品を創作するプロセス、気づきからテーマを選択して壮大なコレクションに至るまでを見せていただきました。
徹底的に言葉を尽くして妥協しない二人のやりとりは厳しい。
仕事とはいえ、二人はパートナーとして大丈夫なのかと凡人の私は懸念してしまう。
二人は、晶子と鉄幹でもなく、ボーヴォワールとサルトルでもないに決まっているのだが、現代的な新しいパートナーシップをそこに見い出すのは、私だけではないと思う。
二人は対等で、その関係性において駆け引きをしない。とくに関口真希子の動じない果敢な表情が好きだ。
また堀畑裕之の関口真希子への尊敬と優しい眼差しが素敵だ。
人は言葉で思考する。
徹底的に言葉を尽くすということは、徹底的に思考しているということ。
これまで私自身が活動の中で、とくに人権について言葉にこだわってきたのは、無意識に使っている言葉の差別性に気づかないで使い続けるということは、やはり人権に無頓着な思考を続けるということにつながって、自身の中で差別が再生産されていってしまうからであり、それはまずいと自覚しているからです。
なんと関口真希子は大学で法律を学び、当時まだ知られていない性同一性障害に関する研究論文を書いている。
また堀畑裕之も大学院でカントの哲学の研究者であり博士論文を書いている。
二人とも研究者であり、創作という実践者であるのが素晴らしい。
それだけ言葉を尽くしながら仕上がってきた彼らの服は、無言のうちに何を語るだろう。
matohuの作品をまとう。纏う。
まとった瞬間から、自分と一体化した服が、ありのままの自分の心を時には優しく、時には力強く応援してくれる。
そんな作品が生まれてくる内幕が赤裸々に描かれていた。
一緒に観た末娘も感動していたが、最後に「お母さん、matohuのモデルさんは女性だけなの?」と聞かれた。
matohuの服は、多くの男性も着ているけどね。今度またお尋ねしておくよ。
堀畑さんは、堺出身でいらっしゃいます。堺の誇りの文化人のお一人です。
この映画の大阪での上映は5月5日まで。第七藝術劇場にて。必見です!