堺の市民病院、今は総合医療センターとなり、その歴史が100年。
この記念式典がフェニーチェの大ホールで開催されました。
大正12年(1923)市立公民病院は宿院の顕本寺境内に設置されました。以来、数々の火災や戦争を乗り越えて市立堺病院となり、平成27年に市立総合医療センターとして生まれ変わりました。
そこには多くの物語があります。
💜O-157学童集団下痢症
1996年の堺市でのO-157学童集団下痢症の発生の対応に追われた堺病院は、ベッドも足りず、廊下などに腹痛などを訴える学童が溢れる状況でした。未曾有の大規模な食中毒は、世界的ニュースになりました。
ちょうど堺市とオランダとのダッハランド事業の調印のためにオランダにいた母がテレビのニュースを見て、電話をかけてきました。
結果、学校給食に起因するO-157学童集団下痢症で当時は、9523人が罹患し、3人の女の子がなくなりました。
また後遺症により一人の女性が亡くなりました。
当時の院長は、里見先生でした。
💜O-157を忘れない日
私は堺市健康づくり推進市民会議のメンバーとして、ご遺族にもお会いした上で、毎年追悼と誓いのつどいを開催し、議会において7月12日を「O-157学童集団下痢症を忘れない日」とすることを提案し、実現しました。
今は、この日に追悼と誓いのつどいが実施されています。
💜ぞうさん親子のモニュメント
市立堺病院として安井町に病院が移転され、広場に
実物大の象さん親子の噴水が設置されました。
これは、先代の山口彩子が市会議員だった頃、堺病院の小児病棟に入院している子どもたちのために本物の象の大きさがわかるようにと提案したとのことでした。以来、その広場は象さん広場と呼ばれ、堺病院のシンボルとして市民に愛されてきました。
💜山口彩子の政策提言
幡谷市長の時代、人口が80万人を越える堺市の医療が二次医療圏にとどまり、いざと言う時の救命救急、三次医療が行えていないことを市会議員であった母、山口彩子は議会で指摘して堺市に救命救急センターが必要であることを提案していました。しかし当時関西新空港が開港される予定で、泉佐野市に救命救急センターが先に設置されました。
💜母の遺言から
母は、5期20年で市会議員を勇退した後、後継者は指名しませんでした。皆様が私を指名してくださり立候補することになりました。無事に当選できました。その2年後、母は食道がんのために他界しました。当時の安井町の市民病院では、手術はできてもフォローはできないと言われましたが、母は転院を拒みました。ずっと市民病院でお世話になりましたが、残念ながら母は他界しました。
亡くなる前に、母は私に幾つかの政策の遺言を残しました。
「私ぐらいのガンが治せないような市民病院ではいけない。もっと高度なガン治療ができる病院を市民のために作りなさい。そして救命救急センターも、必ず必要だから」
母の死後、すぐに救命救急センターの設置について取り組みをはじめました。
福助足袋さんが倒産された後売り出された、ちょうど市民病院の真横の土地に救命救急センターをと、堺市に提案しましたが、当時の市長は決断しませんでした。
もたもたしているうちに、姉歯事件が起こり、建築基準法が変更されて堺病院の広場の上にも、救命救急センターを設置できなくなりました。
そうこうしながらやっと取り組みを始めて17年目に完成したのが総合医療センターでした。
時間も市民の血税もが多大にかかりました。市長によってこういうことになることがよくわかりました。
私は、母の遺言を実現することができました。
さらに子育ての経験から、総合医療センターの敷地内に子ども病院も設立し、とくに女性医師などが働き続けやすいよう、病院職員のための住宅も設置するよう提案し、実現できました。
家原寺町にある総合医療センターの入り口にぞうさん親子がちゃんといます。
100周年、多くの市民や人々の生命と健康を守る堺の総合医療センターは、このたびのコロナ禍にも、大きな貢献をしました。感無量です。
このセンターの設立に向けて特に堺市医師会、堺市の職員の皆様と関係者の皆様に心から感謝を申し上げます。
亡き母も空から祝福してくれているにちがいありません。